リケ男とレキ男:なぜ歴史が好きか

私は歴史が好きで、理系男子なのだが、世の中は女性で歴史が好き、もしくは理系だとレキジョやらリケジョやら言われてもてはやされる(?)。私は残念ながらもてはやされた記憶はないし、リケ男、レキ男はなんともオタクっぽくて飲み会でもネタにならない。。。が、歴史はいい。歴史の本を読んでいると何か壮大なことを考えている気になるのでストレス解消にもなる(平均値と比較したらストレスは低いと思うけど)。しかし、総じてオタクっぽくなってしまう。例えば、史跡とかに行って、くどくどその史跡の事を語っている男子(というか、もうおじさんだがどちらにしろ・・・)を見たら皆様どう思われるか?同じことが理系男子にも言える。例えば、色付きの炎を発するロウソクを見ながら、「これはセシウムかルビジウムの色かな」とか言ってしまうかもしれない。

高校生で習う元素の炎色反応(セシウムとかないな。。。)

MBA受験中にエッセイを書く際には、自分を見つめなおすことになるが、その中で歴史という物の存在感は大きかった。(理系だが(??))歴史は好きだし、歴史の本を読むことも好きだし、歴史が自身の数々の判断の役に立ってきたとも確信している(一応この回でも後ろの方でビジネスとの関連を記載している)。ただ、なぜ「好きか」、なぜ「役に立つか」を明確に説明することがこれまで出来ていない。こんなに好きなのに。。今回も出来ていないが、今の自分の考えを記載しておこうと思った。

この話を始めるときにまず引用すべきはエドワード・H・カー(Cambridge大学卒)の「歴史とは何か」であろう。(ちなみに、何分20世紀半ばの本で、英語も分かりにくいのか、日本語訳も分かりにくく、私には読みにくかった。高尚な本だからなのであろう。)カーの最初の「歴史とは何か?」に対する答えは「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との尽きることを知らぬ対話」とのことだ。

エドワード・H・カー (1892年 – 1982年、私が生まれた年にご 逝去 ) 。「危機の二十年」という本でも有名。

抽象的で分かりにくいが、同じような抽象的なことは 2019年10月に邦語訳が出版された 「なぜ歴史を学ぶのか」という本の最後に記載されていた。 「生まれる前に起こった事柄に対して無知でいることは、子供のままでいることを意味している。なぜなら、人間の一生が価値を持つのは、それが歴史の記録によって先人たちの生きざまの中に組み込まれた場合に限られるからなのである」というキケロ(このローマ人(BC106-BC43)はユリウス・カエサルの文脈から見ると、ちょっといじめられて可哀そうな感じのおじさんなのだが、文学の世界では神のような扱いをされている人だ。)の話を載せている。 (ちなみにこの本にはCambridge大学の事がたくさん載っていて嬉しかった)また、 「サピエンス全史」で有名になった、ユヴァルさんの「ホモデウス」にも記載がある。「歴史を学ぶ目的は~過去の手から逃れることにある。~私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性~~に気づき始めることができる」。こちらの方が少し具体的か。後半に記載のあること、つまり、「祖先よりも発展した事ができる」ことが歴史の目的ということだ。

BC63年ローマ元老院、 カティリナ弾劾演説。左で手を広げてしゃべっているのがキケロで、
彼の名前を有名にした演説。イタリアの国語教科書にも演説内容が載っているらしい。

過去より発展するためにはどうするか?この「なぜ歴史を学ぶか」に、19世紀後半に人が歴史を学んだ理由は「古典古代世界の共和制や民主制が抱えた諸問題や試みや失敗について無知でいるわけにはいかない」からだと記載がある。これが一番一般的に言われている、歴史を学ぶ理由ではないだろうか?過去の失敗を学ぶことで、同じ失敗を繰り返さない事、それによってより良い未来を創ること。過去の失敗から学ぶと出来るものは何だろうか?個人としては、してはいけない事(しない方がよい事)成功パターン等(明文化されなくても)を自分の中に蓄積することになると思う。その蓄積されたものに合わせて自身の行動を決めている。一般的には、それは、おそらく理論なのではないかと思う。 「大戦略論」にも「理論は歴史から抽出して構築するほかない」、「理論のおかげで、戦略家は絶えず歴史を振り返る必要性から解放される」と記載されている。つまり、理論(だけでなく、拡大解釈するとルールや規制)のおかげで、 我々は日々の判断や行動でいちいち深い考察をする必要がなく、脳のエネルギーを節約できる。確かに理系でも過去の偉人たちの研究を学んでいるわけで、その積み重ねの上で新しい理論が作られていく。そういう意味では歴史とは切っても切れない関係がある。

カーは「歴史とは何か」で「歴史を読む人間も書く人間も慢性的に一般化を行っている」し、歴史を「自分自身の時代に適用してみるもの」であり、「一般化が自然科学者を博物学者や標本収集家から区別する」と言っている。そして、この一般化こそが歴史をScienceに分類するものであり、歴史も物理学や他の理系学問とおなじScienceだと主張している。そういう意味でも「理論」という言葉はしっくりくる。余談だが、一方で量子力学(の(おそらく)ハイゼンベルグの不確定性原理)を引き合いに出して「主観との客観の双方」が観察している対象に影響を与えるが、これが歴史研究の観察者と観察対象にも当てはまるというのは「納得できない」と言っている。私としては、ここは関係ある方が面白いと思ったのだが、確かに量子レベルとマクロレベルで直接関係すると考えるのは早計過ぎるかもしれない。

ジャレッド・ダイアモンド(ハーバードとケンブリッジでは生理学専攻(理系)だが、現在は人類学(文系)の教授)も「危機と人類」で「科学の基本とは、現実世界を正確に描写し理解するという行為」と言っている。これはまさに文系も理系も共通してScienceだということであろう。

「gun germs and steel official」の画像検索結果
日本で一番有名なジャレッド・ダイアモンドの本は「銃、病原菌、鉄」であろうか?

カーは「過去の諸事情に秩序を与え、これを解釈するーこれが歴史家の仕事ですー事ができるのであり、また、未来を眺めながら現在における人間のエネルギーを開放し、これを組織するーこれが政治家、経済学者、社会改革者の仕事ですーことが出来るのです。」 とも言っている。秩序と解釈がイコール理論ではないが、理論を構築するために歴史を学ぶ、というのは一定の納得感があるがどうだろうか?

一方で、現在の世の中では益々、歴史が必要になってきている、という記述もあった。前出の「なぜ歴史を学ぶか」で記載されていた19世紀の引用について、この時代にそんな事が必要なのはエリートだけ。つまり、この時代「歴史はエリートによるエリートのためのエリートについての」学問だったということだ。しかし、時をたつにつれて、歴史は「嘘を構成する事実誤認という霧のなかをかき分けて進む能力を高めてくれる」ものに変わった。 昨今のFake news(は本にも事実誤認の例として記載されているが)を何が正しくて何がそうでないかを判断する指針は(知識としての歴史が全て正しいとも限らないが)様々な歴史を学ぶことで判断ができるのではないかと思っている。

加藤陽子さんが書いた、「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」という本にも「現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています」と記載がある。これも判断する時には歴史の蓄積が良い指針になるということだろう。 ちなみにこの本は非常に面白くて、それまであまり読んでこなかった日本近代について読み始めるきっかけになった。

これらはちょうどAIがDeep Learningで確からしい答えに近づけるのに似ている(のは昨今のAIが人間の脳のメカニズムを模しているから当たり前かもしれないが)。 では、もし全ての歴史が間違っていたらどうするのか(教師データが間違っていたら)?という疑問がわくが、それはもう個人の力でどうにかできるものではないと思う。今でも多くの専門家の方が日々努力して、少しでも正しい歴史を記そうとしていて、我々素人は今の時代のその中で頑張るしかないのではないかと思う。

昨今のAIに使われているDeep Neural Network(DNN)。左のInput(質問)と右のOutput(答え)の組(データ)をたくさん与えることで、中のNeural Networkが最適化されていく。人間の脳も同じ構造。

ただ、少なくとも学校で習うより世の中は複雑だということが歴史を学び続けることで分かる。小学生の時は善と悪みたいな分かりやすい文脈の中で学ばないといけないので、非常に歴史を教える事も学ぶことも難しいと思う。世の中はそんな単純じゃないんだと分かったのは、ガンダムの1年戦争がガンダムの敵のザク側(ジオン公国)の独立戦争が発端だと知ってからだ。幕末なんか、坂本龍馬のように思想の変化で敵と味方がしょっちゅう変わるから、小学生の時は理解できなかった。最近読んでいる「教養としての「フランス史」の読み方」でも、フランス革命は 「「古い王政が~自由を抑圧して~市民が自由を求めて起こした革命」というほど単純であったわけではない」と記載がある。 むしろ王(政府)は自由市場主義を導入しようとしていたが、市民は自由主義より 、王の中央集権による安定的な政治を求めていた。しかし、特権階級(貴族)がそれを拒んだ。というような複雑な様相を呈していたようだ。(ちなみにフランス史について興味を持つことになったのは佐藤賢一の「双頭の鷲」から「小説 フランス革命(全10巻)」を読んでからだ。ちょうど最近ナポレオン三部作が刊行された。非常に面白いので是非。)

今読み中のナポレオン

このように人の世界は複雑で相手側にも色々な状況や思惑があるということを学ぶことは、他の文化を受け入れたり、人や国に対して寛容になることに役立つのではないかと思う。加藤陽子さんも「多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。」とも記載があり、他の文化や人に対する寛容さと同じことを言っているのだと思う。

追加で2点、これまでの考察に入らない記述を紹介したい。「ホモ・デウス」では、過去に意味のあったことが新たな時代では意味がなくなる過程を眺めることが重要とも言われている(本の中では”意味のウェブがほどけたり、新たなウェブが張り巡らされるのを見る事”と書かれている)。

「大戦略論」では「優れた知性の基準=二つの相反する考えを同時に持ちつつしかもきちんと働く」もので、「歴史とは人間には探知できない法則を反映している」そして「相入れない物事への適応が必要になる。これこそが歴史から学べることである」と言っている。

最後にビジネスとの関連を少しだけ。ビジネス書でも歴史の重要性が書かれている(?)本がある。ビジネス書や自己啓発書はほとんど読まない(大学生の時は読んでた)のだが、数冊ある本の中で一橋大学教授の楠木健さんの「ストーリーとしての競争戦略」(いわゆる「スト戦」)がある。10年前に父親に借りて読んだのだが、面白く、その後自分で購入した。久しぶりに読んでみたのだが、やはり面白い。と言うか、この人がユーモアがあって面白い。ここでは「戦略的思考を豊かにするためには、「歴史的方法」が最も有効です」と記載がある。ここでの「戦略」はビジネス書なので、「経営戦略」のことだ。楠木さんは「歴史が重要」と直言しているわけではないので、どのように思っているかは不明であるが、私個人がこの文脈から想像を広げる限り、「物事の因果関係的な思考を豊かにするには一般的な歴史をたしなむのが有効」と言いたい。楠木さんのブログを確認したが、歴史に対する記述は少なかった。ただ、彼が影響を受けたという米倉一郎元教授の回の話は、楠木さんの面白いキャラの一貫性が出ていてよいし、このような方とお友達ということは楠木さん自身も歴史に対して何らかの思いを持っているものと思う。この人のブログは短い、私のは長い。。やはりブログは短い方がいいのだろうか。。しかし、スト戦では「ストーリーは長い話」と記載があったので、ストーリーになっていれば長くてもいいはず、あくまでなっていれば。ちなみに「当時のITブームに相当するような華々しく見える事業機会は、今で言えば、環境技術やシルバーマーケットというところでしょうか」と記載がある。この文章から10年後、これから環境やAgingのビジネスを考えようとしている自分がいた。。。やはりその要素は抜いて、人への価値から考えるべきだと認識を改めた。

以下、私が歴史を好きになった経緯も載せておく。

歴史を好きになった最初のポイントは、小学生の時に「マンガ日本の歴史」を読んでからだ。多くの方がそうだと思うが、特に戦国時代あたりは面白くて何度も読んだ。戦国時代が面白かった理由は「戦術」の話があった事が一番だと思う。例えば、信長が今川義元の大軍に対して、少数でどのように勝利したかという部分だ。その他の部分に関しても、過去から現在に至るストーリーになっているので面白い。おそらく、人間は因果関係を面白いと思うのだと思う。一般的な小説もその因果関係の強さが面白味に重要だと思う。とは言え、それから次のステージに進むまでは10年ほど必要であった。

次の転換点は大学1年生の時だ。一般教養の選択授業でリーダーシップに関する何かしらの課題が出たため、「リーダーシップ」と図書館で検索した際に出会った本が塩野七生の「ローマ人の物語2巻、ハンニバル戦記」だ。このハンニバル戦記は大学生の男子の心をくすぐるには十分だ。なぜなら戦術に関する記載が満載だからだ。第1次ポエニ戦役において、それまで船を持たなかったローマ共和国が海洋国家のカルタゴにどう勝利したか。第二次ポエニ戦役におけるハンニバルのローマ共和国に対する快進撃における戦術のバラエティー。そして極めつけは第三次ポエニ戦役におけるハンニバルとスキピオ・アフリカヌスの決戦。これだけ心躍った本は「銀河英雄伝説」くらいかもしれない。この後、1巻からローマ人の物語を読み返して、大学院生まで全15巻、約4500ページを読破した。4巻と5巻ではユリウス・カエサルが登場し、ハンニバルと合わせて、戦略というものを知ったと思う。ここから、他の塩野七生の本を読んだり、他の歴史を読んだりし始めた。

「Cannae hannibal」の画像検索結果
ハンニバルの大戦術が披露された戦いの一つ、カンネの戦い

24歳でIBMに入社するのだが、ローマ人の物語を読んだことで自分はローマの歴史を知り、戦略というものを知っている、ということが、(根拠の無い)自信になっていた。それもあって、歴史を読み続けていたのだと思う。(ちなみに塩野七生の本は歴史小説であって、歴史書ではない、と言われる。そうだとしても、本がカバーしている歴史については知ることができると思う)

カーが言っていた 「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との尽きることを知らぬ対話」 。歴史を読むことは自身が過去と対話をしているのだと思うだけで心が躍る。結局はそういう「勘違い(?)」であっても、個人の中で心躍る事が何かをする理由で、私の場合はその1つが歴史を読む理由なのだと思う。