注意必要かも、欲しがりません勝つまでは

新型コロナウイルスで自粛生活が続いている。5月末現在、日本の緊急事態宣言は解除されたが、昔の日常はまだまだ戻らず、将来的にも昔とは違う日常になるというのが世の中の認識だ。私も7月末まで原則在宅勤務という会社の方針である。

一方で、4月初期のころは、子供が外でサッカーしていることや、営業している飲食店の110番通報があったようだ。「自分が頑張っているんだからお前もがんばるのも当たり前」という、日本人の調和の精神のNegativeな面が出ていると思う。消費増税の時もTakeoutは8%で、店内は10%という事に対する批判で、「Takeoutといって店内で飲食した客をどう扱うか?」という疑問を持つ消費者がいたようだ。ほっておけばいいと思う。何かやむにやまれぬ事情があってそうしているのかもしれないし、ただ2%払うのが嫌だというのであれば自身の尊厳を傷つけているだけだ。

昨今は自粛が当たり前で、少しそれを外した行動をすると批判されることがある。今はそれが大事だと思う。実際、新型コロナウイルスにはわからないことも多いし、医療現場はおいておいて、市内のマスク着用がどれだけ意味あるのか科学的な論文は少ないようだ。だからこそ危機意識が大事だと思う。

ただ、妻と話していた、この世の中の危機意識が極端に走ったのが戦争中の日本だったのかもしれないということだ。戦争も急に起こったわけではなく、徐々に国と国の雰囲気が変わっていて、おかしいこともおかしいと言えない(言ったら捕まる)状況になったのだと思う。なるほどなと思った。コロナによって監視社会が進むのか、監視社会から警察国家になっていくのか。技術的には、センシングで人の顔の筋肉や温度等のデータを取れば、何にどう反応しているかわかる。それは感情まで把握されるということだ。昨今のコロナの影響で、そういう監視アプリに対する人々のハードが下がってきている感は否めない。少なくとも日本は第二次世界大戦の反面教師があるのでそうならないと信じたい。(のろけで申し訳ないが)妻から示唆を受けることも多く、ありがたい。

全く異なる話だが、日本は極端に匿名を用いるという話がある。これが日本のジャーナリズムが弱い理由らしい。欧米では新型コロナウイルスの犠牲者に対して実名と経歴を載せてお悔やみを申している。日本では有名人だけだ。「もし彼ら(取材相手)がバッシングを受けたら?報道記者には、「そんなことは起きません」という保証などできないというのが現実だ。」その通りだと思う。とは言えこの記事の結びは以下となっている。「匿名報道は、長い目で見れば結局のところ、メディア不信の源泉になりうると警告するのである。このこだわりを、報道記者は職業倫理として持ち続けるべきだろう。そうした報道側の姿勢が、不信と苛立ちが強まるコロナ禍の中にあって匿名社会への転落を防ぎ、人が正々堂々と意見を言える社会の基礎を固めていく一助になるのではないだろうか。」

ビジネスにアートは必要か??ヴェネチア人の考え等

MBA生最大の悩み、Post MBA(後編)を記載するべきなのだが、脇道にそれて2回目となっている。。生きていると「自分が忘れないうちに記載しておこう」と思うものが出てきてしまう。就活の話も早く記載しなければと思う(どんどん忘れていくし)。とは言え、今回は少しは就活に関係があるか?

「アート」と聞くと皆様はどうイメージするだろうか?やはり挿絵に使った「最後の晩餐」のような美術作品だろう。私もそうだ。ちなみに好きな作家に、原田マハさんがいらっしゃる。特に「楽園のカンヴァス」が好きだ。彼女のおかげで美術の見方が少し変わった、映画の見方も。「キネマの神様」は志村けんさんで見たかった。ご冥福をお祈りいたします。また、話が逸れたが、、実は「アート」に関しては疑問に思っていたことがある。「政治はアートだ」という言葉だ(知らなかったが、陸奥宗光の言葉のようだ)。なぜ芸術という感性的なアートが政治なのだろうか?と思った(思いますよね??)。実は大好きな塩野七生さんの本にもしばしばアート(塩野さんの本では「アルテ」)について記載がある。

商売を効率良くやっていくには政治、外交、軍事のいずれの面でも、非常にきめの細かい技を駆使しなければならず、そのようなアルテ(技術)は、作品を残すアルテ(芸術)に比べて、才能としても、少しも劣るものでないことを知っていた(海の都の物語 ―― ヴェネツィア共和国の一千年

民族の興亡のはじめには経済力の強大が来、次いで政治力の成熟が訪れる事実が、証明してくれるようです。つまり、人間が、自らの智恵をしぼってやるに値する「技(アルテ)」なのです。(マキャベリ語録

ヴェネチアの話を見ると「ビジネスはアート」という事は前提のようだし、マキャベリも「政治はアート」みたいなことを言っているようだ。そして、「アート」は「技」という事か。これは塩野さんの本にも記載があるが、アートの語源はラテン語のarsであり、ギリシャ語では自然に対比される人間の技や技術の事のようだ。これはMBA、というよりイギリスの大学に行ったことで理解できた。イギリス(欧米は全部そうかもしれないが)の学位の欄には大別して「BA」と「BS」という物がある。これはなんだ?と思うと、BAはBachelor of ArtsでBSはBachelor of Scienceだ。この場合Artは当然芸術ではなく、哲学や、音楽、言語学など人間が作り出したもの。歴史もここではArtsに含まれる(そうすると以前記載したエドワード・H・カーの「What is history」に対する考察と異なるが一般化するという意味で歴史がScience的な考え方をするという主張は上記の分類学的な話とは別だと考えたい)。ちなみにリベラルアーツ(Liberal Arts)はArtsやScienceを学ぶ前の基礎的な学問の位置づけだ。だから、Scienceを学ぶ前に文の書き方や説得力の向上を狙う”英語”の授業があるのは当然だ。私も慶應大学の3年生で、Technical Writing という授業を受けて、理系における文章の書き方を習った。

純ドメ日本人が必ず悩む「私の大学の学位ってBA?BS?どっち??」というのもこの考え方の違いからくる。理系と文系という考え方がイギリスにはない。乱暴に言えば、理系も文系もScienceでNatural Scienceが理系でSocial Scienceが文系だが、歴史はどっちでもないので注意が必要だ。

上記の文脈から明らかに「政治はアート(という学問の分類だ)」と言える。が、陸奥宗光や塩野七生はそういうことを言いたかったわけではないと思う。同じように上記の文脈から、「アートは人々が努力して作り上げてきた技」ともいえると思う。よって、「様々な要素を考慮して、きめ細かく知恵を絞って実行する技(アート)が政治だ」ということで、「それは芸術家が芸術を作り出すときの作業に劣らない」という事だと思う。男性は歳を重ねると芸術的な作業をしたくなるようだ。なぜ男性だけなのかは分からないが、歳を重ねることで自分の中に様々な要素が溜まっていく。それが混ざり合うことで良い作品が出来上がるのだと思う。アートなので、感性が必要だというのも、単純だがその通りだと思う。結局は感性も「様々な要素を考慮して、きめ細かく知恵を絞って」という事から発現するものだと思う。つまり、芸術も「センスや才能」というような一般的にどうすれば手に入れられるか分からない物に左右されるのではなく、人間の努力の産物だということだと理解している。よって、「ビジネスにアートが必要」と言われる場合、ビジネスに感性や芸術家的な要素が必要だという狭い意味より、もっと広い「人間の技」が必要だということだと思う。

そういう意味ではビジネス、特に経営もアートだと思う。MBAを卒業して経営に近いところで仕事をさせていただいているが、考える範囲や要素がMBA前と比べて莫大に増えた、世界、地政学、技術の範囲、地球環境、等々。ありがたい事である。このような膨大な要素を考える時、フレームワークや方法論は役に立たないと思う(当然ある特定の領域を整理する上では役立つ)。まさに芸術家のように(って、芸術家になったことはないので分からないが)頭の中にある経験や知識をなんとかして統合して形作っていくという非常に疲れる作業の継続が必要だと痛感している。

アンパンマンとばいきんまん

「アンパンマン地獄」妻が最近口にする言葉で、朝から晩まで娘がアンパンマンを見たがり、しかも一緒に見ないと機嫌が悪くなる、という状況だ。私も最近は在宅勤務で、毎日朝から晩までアンパンマンの歌が聞こえてくる。実家に帰ると私用に買われた30年前のアンパンマン玩具や図鑑が役に立っている。娘は1歳10ヵ月だが、皆様のお子様はどうだろうか??

とは言え、アンパンマンが2歳近い子供にあれだけ好かれるのはすごいと思うし、アンパンマンがないと妻は家事も出来ない。内容も深い話だなと尊敬もする。アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんは元軍人で太平洋戦争にも従軍している。その戦争体験が元になったようだ。ここを参照させていただいているが、そこには

戦争と飢え。さらに戦争終結によってこれまで信じてきた「正義の論理」さえもがひっくり返ってしまう。~~ しかし逆転しない正義もある。それが献身と愛だ。そして弱者を助けること。自分の身を削って人を助けるアンマンパンにはそんなやなせの想いが凝縮されたものだった。~~「正義に勝ち負けなんて関係ない。困っている人のために愛と勇気をふるって、ただ手をさしのべるということなのだ」 やなせのこだわる「正義」。それをテーマにした著書もある。『わたしが正義について語るなら』(ポプラ社)だ。 やなせはアンパンマンを書いたのは「本当の正義」を伝えたかったからという。アンパンマンはヒーローだが情けない。弱点もたくさんある。そして相手を決して殺さないし、「自分はエライ」と自慢しない。

と記載がある。

「やなせうさぎ」というキャラクターがいる、記念の回にしばしば登場するうさぎで、やなせたかしさんが自身の代わりに登場させているものであり、現在のオープニングの最後にも出てくる。劇中では常に、「お腹が空いて動けないところをアンパンマンが助ける」というベタなシーンである。が、これこそが、やなせたかしさんが戦争で飢えに苦しんだ時の正義の味方の具現化なのだと思う。それもあってか、名シーンに見える。

アンパンマン』新オープニングは雰囲気が違う?“やなせうさぎ”も登場 ...
現在のオープニングの最後

そんなアンパンマンだが、BSでは朝8時から1時間で昔(といっても10年前くらいだと思うが)のアンパンマンの再放送をやっている(これも見せられて妻は可哀そうだが、なぜかここはあまり集中してみない娘)。これを見ると、オープニングや、アニメの内容が今と少し違う事に気づく。昨今のアンパンマンを見ると、バイキンマンは食べ物を取り上げて勝手に食べる事はあっても、閉じ込めたり捕まえたりするシーンは見当たらず(あるのかもしれないが)むしろアンパンマンとのやり取りが友達のように見える。ドキンちゃんに至っては横で見ている事が多い。一方で昔の劇中ではバイキンマンの行いはもっとひどく、ドキンちゃんも直接手を下している、昨今のいたずらレベルとは明らかに違う。オープニングも昔はアンパンマンが悪を倒す派手さがあったが、今のオープン二ングは技術が進化しているにも関わらず、優しいタッチだ。(ちなみに娘はバイキンマンが好き。バイキンマンの人形を離さない。)

この違いはなんだろうか?

おそらく昔は、分かりやすい「悪を倒すかっこいいヒーロー」の方が視聴者が増えるという判断だったのだろう。しかし、DVや虐待、体罰が問題になる中で、暴力的な描写を減らしたのではないかと思う。だが、それだけではなく、やなせたかしさんの原点に戻ったとも見れると思う。それは「正義のための戦いなんてどこにもないのだ」ということであり、逆に言えば「悪を倒す戦いもない」と言えるのではないかと思う。(ただ、バイキンマンはアンパンマンを倒すために生まれてきたという設定のようなので、戦うのは宿命のようだけど(でも最近仲良く見える))。昨今人気の「鬼滅の刃」も敵役の鬼には鬼の過去と論理がある。この世に本当にこの人(行い)は悪だ!というのは難しいのかもしれない。私がそれに気づいたのは、中学生の時にガンダムを見ていた時だ。小学生のガンダムはロボット達が戦っていて正義が悪を倒す図式に見えたが、よく見るとジオン公国の独立戦争で、ガンダムの所属する地球連邦がそれを阻止するという図式だ。

昨今、少なくとも日本のアニメにはそういう物が増えてきていて、いい傾向だと思う。グローバル化の反動でポピュリズムの波が来ている昨今、やはり多様性を重んずる心は大事。それがなくなれば自分と違う物は悪だと見てしまうかもしれない